教育天声人語
絵には0点はいない

  3 月下旬のこの時期、テレビの番組はやたら特番が多い。テレビドラマがクールとクールの端
境期にあるためだ。4 月に入ると各局が新しいドラマを次々と登場させる。1回か2回放映される
と、週刊誌、新聞には各ドラマについての批評が載る。
 つい最近まで放映されていた冬ドラについて、始まったばかりのころ、ある辛口評論家の批評
を週刊誌で偶々目にした。「シナリオの人物設定そのものが陳腐」「せりふに少しもリアリティー
がない」「主役の女優が秋の時代劇と同じような表情・口調で演じている」「こんな人物造形でいい
と考えているなら、視聴者をなめているとしか思えない」……。辛らつな言葉の数々。私だったら、
自信喪失して二度と原稿を書けなくなるだろうと思えるほどだった。その記事を読んだ翌日、新
聞で5人の記者による「冬ドラを斬る」という座談会の記事が目に留まった。競馬予想のように各
ドラマに◎○△×をつけた表も載っていた。おもしろいことに記者によってこれがバラバラなの
である。辛口評論家が取り上げたドラマに○をつけていた記者もいた。
 人によって評価が分かれる。機械が作るものではなく、人間が作るものではこれって案外当然
なのではないだろうか。以前、大学からきた画家の女子美の校長がこんなことを言っていた。「い
ろんな人が評価するから、絵には0点はいない。」
 十人の先生が十人とも同じ計測器をもって生徒を見ていたら、生徒は萎縮することはあっても
大きくは伸びることはないだろう。
 生徒を育てるに当たって、先生方の方向性が一致していることは必要だが、オフィシャルな評
価とは別に、「はみ出し部分」や「裏面」についても気にかけてあげていただきたい。「オレだけは
わかっている」 「私はちゃんと見ているからね」 ……そんな先生がいてくれれば、「負け組」もなん
とかやっていける。

「ビジョナリー」2010年4月号掲載     |もくじ前に戻る次に進む

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